■不忠者として頼朝に殺されてしまう
藤姓足利氏の一族とされ、足利俊綱・忠綱の家人。桐生六郎として知られているが名は不明。吾妻鏡にその記載がある。
1180年の以仁王の乱の際は、足利忠綱に従って源頼政と戦ったとされている(桐生市史)。
1183年野木宮の戦いで敗走して上野國山上郷龍奥に籠った足利忠綱に九州へと逃げるよう進言をした。その進言に従い、忠綱は九州へと逃げた。
しかし同年9月、頼朝へ心変わりして足利俊綱を殺害して首を取り降ろうとした。首を持って鎌倉に行くが、頼朝は会わず梶原景時が対応することになる。また首実検は下河辺政義が行った。
俊綱の首を取った功で御家人にして欲しいと梶原景時を通じて願い出るが、頼朝に「代々仕えている主人を殺すのは賞するに値しない。すぐに処刑するように」と返され、景時に首をはねさせた。頼朝は六郎自身は不忠者として斬らせたが、その家族や里の者の家を殺してはならないと命令を下している。
桐生六郎の忠綱に対する進言を見ると、不忠者としてはいささか不可解な行動である。ともあれ、桐生氏は滅亡を免れその後も続いていった。
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